LP4000

就活オワタ

おっかけたい。

 1000字ほど書いたところで途中保存してなくてブラウザさんがフリーズ、書いた文章全部ふっとんだ\(^o^)/ のでもう簡潔にいこう簡潔に(結構凹んだ)。

 手の考えを伺うのに、『どうしたいの?』だけでは不十分だとすごく最近感じる。どうしたいか聞いたところでそれが自分の考えにそぐわなかったらそこで言葉に詰まるし、全面的にその意見に合わせたとしても、『自分が相手の意見を飲んだ。』みたいなしこりになるんじゃないのか。本当は自分はこうしたかったけど・・・みたいな。

 うしようもないから全面的に相手に合わせるしかないって場面もよくある。どうしようもないことに関して自分がこうしたいって言っても無駄だし、そもそもその意見が通るなら、どうしようもなくなる前に事前にそれも含めた話をしておくべきだと。

 段の会話で『私は●●だから▲▲したいのだけど貴方はどう?』ってわざわざ言わないと思うし、そこまで一々伝えてたら『貴方は私のことを理解していない。』ととられる。自分の都合をまず置いといて相手に
A『どうする?』
って聞く方がきっと多い。そこで
B『私は○○したい。』
ってなるとそれに対して是とするか非とするかは、一旦聞いてきた相手(A)に依存する。この○○がAにとってあまりに自分(B)勝手なものだと思われると、またまた
A『Bは私のことを思ってものを言っていない。』
ととられる。その直後に
B『私は□□だと思ったからそう言ったの。』
と言ってもそれはAにとって言い訳にしか聞こえない。例え
B『Aが✕✕と考えてると思ったから。』
と付け加えても、かえって
A『それは私のことを理解できてない。』
 『私のせいにするのか。』
と余計こじれる。

 違ったことをしたらすぐ謝るのが世の常なんだとは思う。けれどその場で自分の悪い点を即座に理解して謝罪に移すのってけっこうむつかしくないかなぁ。悪意を持って行ったならまだしも、そうでないのにとりあえず『ごめんね。』と言っても軽いし意味が無い。謝れば良いってもんじゃない。

 ど、怒らせたことに対して切々と説いてくれるのはあくまで親に叱られる時だけであって、他の交友関係とかでそれを求めちゃいけないんだよね。最近になって気づいた。20年超も生きてきたなら相手に依存せずまず自分を見つめろってことなんだと。

 詮他人であるがゆえに切ろうと思えば切れる関係だから、わざわざ自分が怒った理由を説明剃る必要もない、無駄だと考えてる人って多いんじゃないかな。大学まで来ると更に。だから絶対数が少なくても希薄な人とは希薄なままだし、本当につながってたいと思う人に対して絶対的な執着(語弊があるが)を持つんだと思う。

 題は、相手がそこまで執着する理由とか意味がある人物なのかってこと。 ついこの間まで仲良かったのにもう離れてるとかたまに見る。一緒にいて楽しいとか得するとか好きだとか、いろいろ理由はあるだろうけど、好きだから全部許されるわけじゃあないんだと。結局徐々に好意が同情に変遷してしまった関係は、どろどろに濁って膿んでいつしかそこから自力で脱出できなくなってしまうんだと。

 りが何を言っても効かない。もう物理的に引き離すしか方法がないレベルになる。最悪、どちらかがこの世を去るとかね。そうなるべきじゃないから必要以上に深い関係を持つことを嫌い、必要最低限しか求めない(全く求めない人もいるかもしれない)。最低限しか欲していないんだからそれ関係で苦労するのはバカバカしいと。自分に都合の良い(良くも悪くも)相手を探そうとする、もしくは寄ってきてくれるのを待っている。

 いたいけど言えない、けど見られたくないっていう勝手な理由で、特定の相手にしか公開していなかった時期がある。でも届かなきゃ意味ないからこういう形態の書き込みを選んだって面もある。まぁ目を向けてくれなきゃ意味は無いけど。

 を怒らせるってだれでもできる。自分が、相手がされて嫌なことって見えてる部分も見えてない部分もたくさんあるから。けどされて嬉しいことって案外見えてない。怒らせない努力だってしようと思えばできるんだろうけど、そこに片方の我慢が蓄積していく形はきっとどっかで崩壊する。ていうか崩壊しかかってる。

 壊しかかってる状態でもずっとおっかけてたいのが本音ではある。要はその追っかけ方がいまいちよくわかってないってのが問題なんだよなぁ・・・。相手を理解云々の前に、自分をもっと見つめてみなきゃいけない。

2012/11/28分・卒論の方向性とかまとめ。

 

 期取ってる講義のうちの一つに論文やマニュアル等客観的な文章を書く訓練をする講義がある。その課題で『自分がやりたい卒論の序文を書く』課題が課せられた。
あくまで講義課題用ということで、議題は本当にやろうとしていることでなくても良いというのが前提の課題だ(卒論にあたって複数議題を持っておける方が心強いのは確かだけど。)。しかしこれが結構手こずっていた。
 序文は論文の触り部分でしかないのだが、そこに論文全体のエッセンスがぎゅっとつめ込まれている部分でもあるわけだ。 つまり論文全体の見通しが立っていないと書けない。形は繕えたとしても中身がなければ読者はそこで読むのをやめる。かといって現時点でそこまで深く計画の立った卒論目標があるかと言われると・・・。なるほど、例年この課題がしんどいと声が上がるというのも納得できる。『あくまで講義の課題であり序文だけ』というのがかえってややこしくしてる気がしないでもない。
 そこで自分の興味のある分野がどんなものか考えてみたのだが(ゼミでもおなじようなプレゼンをしていたし)、いくつか思い浮かぶがどれもあやふやで先が見えるとは到底思えないものばかり。のっけから躓いた。
 この課題に関してはとりあえずということで提出した。ズタボロだけど。

 の講義に際して、もう少し明確な考え方や目標を取り込んでおかないとマズいという自覚がむくむくと沸き上がってきた。こういう時になって『あぁ、X年前の自分は何をしていたんだ。』とか思うんだなぁと自省。ゼミでもまた卒論に関するプレゼン機会があるし、先行研究なんかの既存の部分を埋めておかねば。

 ういうわけでCiniiさん漁ってた。まだほんの2,3しか読んでないのに面白すぎる。と同時に知識とか見識とかなさすぎてワロエナイ自分がいる。
世界の真理とか定石とかよりも、自分自身とそれ以外の関わりや仕組みの方が追っててわかりやすいという感触かな。政治とか情勢とか正直自分から遠すぎてわからん。そういうのも是正すべきなんだろうけど。自分が普段見えなくなってる心の動きとか、改めて説明されるとなるほどーと落としこんで噛み砕けて面白い。
今日のゼミ内容とか日常で聞いたこととか絡めて考えたこと投下しよう。 

 

 まるところ、私は『愛が無ければ視えない』を卒論にしたい。らしい。『愛が無ければ視えない』はうみねこのく頃にというノベルゲームの最重要キーワードで、私が好む言葉の一つだ。簡単に言えば『恋は盲目』と似たような意味。ちょっと語弊があるが。しかし同作品中で『愛があるから余計なものが見える』とも指摘されている。
人は恋しているとき、その相手の①良い所はクローズアップされ、②悪いところは多少なりとも目を瞑る。①が『愛が無ければ視えない。』で②が『恋は盲目』にあたる。それと同時に、例えそれが事実無根としても、③相手は浮気をしているのではないかという疑念を抱くこともままある。これは『愛があるから余計なものが見える』ということである。いずれも、なんとも思っていない相手に対しては通常なり得ない状態である。これには全て、『愛』が関わっている。
愛にもいろいろある。別に色恋に限ったことではない。友人や恩師、動物、道具等々。 『私はこの筆者の意見に賛同している。』という姿勢も一種の愛である。見る側によって情報の受け取り方が違うことを、『愛が無ければ視えない』という風に言っても良いのではないか、というのがおそらく、私のやりたいことだろう。

 間に目を向けるのは確かに大切だし、世間知らずと言われても仕方ない面はある。けども目を向ける準備が出来てない人にいきなりやれ外を見ろだの社会勉強不足だの言っても、それはそもそも同じフィールドで捉えて言ってるアドバイスとは到底思えない。あなたは本当に『世間』というものを捉えきってそんなことを言っているの?あなたの言う『世間』は私にとってのそれとは全く異なり、あなたの世間一般論は私にとって通用しないのでは?と食って掛かりたくなる。
ではその準備っていつ完了するのか、と言えば一生かかっても終わらせるのは不可能であって。それでもニンゲンは徐々に色んなことに目が向いていくイキモノだと思う。ある程度『嘘だろ』とわかる要素もその前に置かれた要素によって真実のように見せることもできるし、『本当だ』と思ってたことも一定の理論的な説明がくっついてくれば虚偽だったのかと疑う事もできる。
人間は自分にそぐわない事柄に対して著しく拒否反応を起こす。それが本能であり防御の術である。今までの常識がいきなり打ち崩されたら人間は生きていけないから。
けれどそれでは前に進めない。自分に相反するものを受け入れるために、『そんなことあるわけない』から『そんなこともあるかもしれない』まで頭を柔らかくしていく。これが目を向ける準備だと思っている。
『あなたの寿命はあと3ヶ月です。』と突然言われて信じる人はいない。『あなたはXXという病です。』『○○が衰えて、徐々に弱っていきます。』『有効な治療がありません。』などの説明を徐々に詳しく受けて、それを自分の身で感じ取って初めて『自分の寿命はあとこれくらいなんだな。』と受け入れられる(実際はもっと反発するし粘るしそれが生きる本能だろう)。

 事の順を追うこと、それによって得られるもの、それから受け入れる外部からの情報、このあたりの絡みをもっと掘り下げたいと思う。きっと人によってすんなり受け入れられる情報の程度は異なるし、情報のほうが人に安易に受け入れられるような形に歪められていることだってあり得る。実際問題、見る側の能力に委ねられているが故に(にも関わらず)その公平性や中立性が声高に叫ばれている。人間がリテラシーを培う過程や背景、情報の持つ真偽の基準、これらを明確にすれば、ある程度〈平和的な〉情報伝達が可能になるのではないかなぁ。
 ドキュメンタリーゼミ、今まで以上に内容の落としこみとか捉え方に再考の余地アリだな。 

最近。

 学部生もすなるはてブロといふものを、我もしてみむとてするなり。

 以前は端的につらつら、少しずつつぶやくだけで十分だったんだけど、最近になって積りつつある思考の整理にはそれだと不十分だなぁと感じるにいたりまして。ある程度まとまった考えを明記しておきたい場合にはブログとかの形式をとったほうがやりやすいかなぁと思い、ちまちまはじめてみました。
 主にTwitterを付箋みたいに使ってたんだけど、長文+多レスって自分で見ててもうーんと感じるし140字で区切らなきゃいけないから前後関係が支離滅裂になってしまってこりゃひどいと。 

 ざくざくとつぶやいたこととか長文になりそうなものはこっちに書きためて、後で読み返すなりなんなり情報プールみたいな使い方が出来れば良いなぁ、と。